あなたは「広告カメラマン」をご存知ですか?

テレビのCMを撮影する人・・?
折込チラシに掲載されている衣料品や野菜を撮影する人・・?

はっきりと説明できる人は、少ないのではないでしょうか、、、

そもそも「カメラマン」という言葉は定義が広く、風景、人物、食べ物、お花・・・
すべてにおいて、写真や動画を撮影する人のことをカメラマンといいます。

その中でも広告カメラマンとは、ホームページやチラシに掲載する写真や動画を撮影するカメラマンのことで、お客様から依頼を受け、お客様のサービスや商品の価値を写真や動画を通して届ける人のことをいいます。

コマーシャルフォト サン・スタジオ所属 鍋坂樹伸さん、46歳(2022.7現在)。
鍋坂さんは広告カメラマンとして約19年活動されてきた中で、さまざまな被写体を撮影してこられました。

その中で鍋坂さんが大切にされていることは、人の魅力やモノの価値、被写体の内面に目を向けることです。
被写体が人物であれ、野菜であれ、その人やモノがもつ魅力を最大限に引き出し、見る人に深い印象を与えられるような写真を撮影することを意識してシャッターを切られています。

それゆえ、鍋坂さんの撮影する写真には、被写体の魅力や言葉では言い表せない空気感が漂っており、なおかつ広告写真なのでお客様の収益や売上につながる作品が多数存在するのです。

その技術と信念に魅了されるお客様は全国に広がり、現在は四国の香川県から、全国津々浦々で活動されています。

ここでは、どのようなカメラマンが良いとか悪いとかいう話はしていません。
鍋坂樹伸というカメラマンが、どのような人生を送ってこられたのか、なぜこれほどカメラマンがいる中、地方のカメラマンが脚光を浴びているのか・・・
鍋坂さんの魅力や存在を深掘りしていますので、ぜひご覧くださいね。

conasu

ちなみに樹伸と書いて「きしん」とも読めますよね。かの有名な篠山紀信さんを意識してご両親が名付けられたのかと思いきや、偶然の産物なんですって!
カメラマンとしてとても名誉あるお名前ですが、鍋坂さんは「恐れ多いです!」とおっしゃっていました(^^)

名前 鍋坂樹伸(なべさかしげのぶ)
生年月日 1975.9.6
職業 コマーシャルフォト サン・スタジオ 所属カメラマン/株式会社サン・サン取締役
趣味 水泳
好きな食べ物 何でもよく食べます!(ただし、蕎麦アレルギー)
SNS

体が弱かった少年の視覚センス

昭和50年、鍋坂家の長男としてお生まれになった鍋坂さん。
生まれた時の体重が1450gだったことから、重症患者が集まる明石のこども病院で約半年間過ごされました。

当時のお住まいは兵庫県姫路市。
病院があった明石市まで、片道約1時間の道のりを、お母様は付き添いに通ってくれたそうです。

といっても当時の記憶があるわけではありませんが、小さい頃は体が弱く、お母様に抱かれて夜間病院へ連れていってもらった記憶がかすかにあるといいます。

また、ぜんそくで発作を起こすことが多かったため、4才からスイミングを始めることになりました。
水の中で感じる浮遊感、開放感はとても心地よく、泳ぐことが大好きだったんですって!

幼少期の記憶の中に、屋内プールの天井に光が反射するのがキレイだったこと、水をかく自分の手にあらわれる泡が踊っているようで好きだったこと、そしてそれらの映像を撮影してだれかに見せてあげたいと感じていたことを教えてくれました。(これはプールあるある?子どもの頃から視覚センスにたけている・・・)

ただ、”撮影してだれかに見せてあげたい”という思いは、少なからずお父様の影響があったからではないでしょうか。

実は鍋坂さんのお父様も、広告写真を撮影するカメラマンでした。
鍋坂さんが2才の時、香川県高松市にスタジオを開業されたのです。

当時、カメラマンという職業は今ほど多くなく、スタイリッシュで粋な仕事をしているお父様を、”かっこいいなぁ”と思いながら見ていたといいます。

そんなお父様に憧れていたのは、鍋坂さんだけでなく弟さんも同じでした。
現在はご兄弟で、家業に所属するカメラマンとして働かれているのです。(お父様は引退されています)

とはいえ、当時お弟子さんを数人抱え、絶え間なく仕事の依頼がくる売れっ子だったお父様。
お母様も家業を手伝っていたことから、お二人ともとても忙しく過ごされていたそうです。

なので家族で旅行へ行った記憶は1~2度しかなく、カメラマンだからといって自分たちの写真を撮ってくれたわけでもないそうです、、、

幼少期の鍋坂さんは、憧れの気持ちと寂しさを同時に抱えながら、ご両親の背中をみていました。

競泳に全力を注いだ学生時代

体力作りのために始めたスイミングでしたが、小学2年生の頃には選手コースに切り替え、競泳選手として本格的に泳ぐようになりました。

ですが、試合前になると気管支炎の発作が起こることもしばしば・・・
体調が万全ではない状態で、試合に出ることもよくあったそうです。

そのような中、いいタイムを出せなかった時には、ご両親から活躍するチームメイトと比べられる言葉をかけられたといいます。

今となれば、子に期待する親の気持ちはわかるそうですが、当時はそれがとてもツラかったんですって、、
鍋坂さんにとって、ご両親が大会を見に来てくれることは嬉しかった反面、ツラく苦い思い出でもあるのです。

ですが何事にも一生懸命な鍋坂さんは、小学6年生になると四国大会で入賞するほど、体力的にも実力的にも高められていました。

中学ではさらにハードな練習が始まり、学校以外の時間はプールで過ごす日々。
家に帰ると、ごはんを食べて寝るだけの生活。
友だちには「塩素クサイ!」と言われることもあるくらい、水泳漬けの日々だったといいます。

その努力は功を奏し、中学では東京で行われたジュニアオリンピックに二度出場!
高校でもインターハイに二度出場!

中・高・大とキャプテンとしてチームを率いて、全国の舞台に参戦する選手へと成長を遂げられたのでした。

学生時代、競泳以外に興味があったことはありますか?とお伺いしても、「競泳以外ありません」という一途な鍋坂さん。

当時は科学的根拠のあるトレーニングなどなかったため、ただひたすら泳いで体力を強化し、スピードアップを目指されました。
競泳とは0.01秒を競うスポーツです。
自分との戦い、タイムとの戦いに、ただただひたむきに向き合って生きてこられたのでした。

~当時お互いに励ましあった30年来の仲間たち

規格外の楽しさに出会った2つの経験

大学生になった鍋坂さん。
そこで出会った大学水泳部の先輩の一言が、これまでの人生観を大きく揺るがすきっかけとなったのです。

「おまえはこれまでプールの区切られたレーンの中で生きてきた。サッカーやラグビーのように人同士がぶつかることのない競泳は、コースに守られている。これからの人生、それではおもしろくないぞ!」

これまでの経験を語り合う中で、鍋坂さんに必要なピースを理解してくれたのでしょう。
そこで太陽の下、山間部や林道を力強く走ることで自由や興奮を感じられる「マウンテンバイク」を薦めてくれたのです。

そして初めて先輩とツーリングへ行った日、鍋坂さんはこれまで感じたことのない体験をすることになりました。

走行中、先輩とクラッシュして転倒したのです!
先輩は無事で「大丈夫か!?」と声をかけてくれていましたが、鍋坂さんは脳しんとうを起こし、意識がもうろうとしていました。

しかしそのような状態のなか、転倒したとき体に伝わってくる振動、衝撃、痛み・・・を感じながら、同時に、”楽しい・・・自分、生きてる・・・”っという感覚を味わったんですって!

これまで水の中の浮遊感に魅了されていた鍋坂さんでしたが、体に感じる衝撃や重力、自分の生命力を肌で感じ、これまでとは違う楽しさを発見されたのです。

それからすっかりマウンテンバイクの魅力にハマった鍋坂さんは、マイバイクを購入し、バイクとともに大学時代を過ごされました。
北海道から九州まで単独で日本縦断した時には、毎日が楽しく、何ともいえない充実感と達成感を味わったといいます。

~旅の途中に出会った友だちと~ 右)鍋坂さん

そしてもう一つ、鍋坂さんの世界観に影響を与えてくれた出来事が、タイで学校を建てるというキャンプへ参加したことでした。

約10日間いろいろな立場の仲間と過ごし、現地の人とも交流を深める中で、自分の存在意義を考えたり、タイの人々の価値観に気付かされたり、学びの多い時間を過ごしたといいます。

タイは日本に比べると決して豊かとはいえませんが、悲壮感というものをまったく感じず、人々の目がキラキラと輝いていたんですって!
逆に日本は経済的に恵まれているはずなのに、日々の生活から疲れを感じ、無気力な人がたくさんいる、、
タイと日本には、幸せの価値観に違いが存在すると感じたそうです。

鍋坂樹伸

ぼくにとって、この2つの経験はとても意味のあるものでした。
これまで競泳という狭い世界で生きてきたぼくに、もっと広い世界があることを教えてくれました。
また、ぼくはこの時初めて写真を撮ったんです。そこで現実を切り取る楽しさ、五感で感じるものを収めたいという願望、これらをこの時はじめて感じました。

conasu

っとここで初めて写真の話が出てきましたが、意外や意外!
鍋坂さん、大学生まで写真を撮ることはまったくなかったそうです。
なぜ、このタイミングで撮ろうと思ったんですか?

鍋坂樹伸

実はぼくが20歳の時、父がカメラをプレゼントしてくれました。
使い方も構図もろくに教えてもらっていないのに、撮影者がすべて調整しなければいけないフルマニュアルのフィルムカメラを・・・。
それを使ってみたかった気持ちもあったのかな?貰って3か月後に行った日本縦断で、全国各地の写真を撮りました。
そして家に帰ったら、父が嬉しそうにフィルムを現像し、プリントするんですよ~。
だけど出来上がった写真を見て、「こんな下手な写真撮りやがって・・・」とため息をつかれて、、すごくショックだったのを覚えています(笑)

conasu

そうだったんですね(^^;)
マニュアルカメラって、いわばプロが使うカメラですよね?
お父様お手が厳しい・・・(笑)

ですがここから数年後、鍋坂さんはお父様とまったく同じ、「広告写真を撮影するカメラマン」の道を選ぶこととなっていくのです。

左)現在のカメラ 右)お父様にいただいたカメラ

対面する仕事のなかに「好き」を見つける

大学卒業後、両親の勧めで東京の印刷会社に就職した鍋坂さん。
この時は、”カメラマン以外の仕事をして、東京で一旗揚げたい!”と夢を描いていたといいます。

ですが4年が経った頃から、どこか東京での生活に疑問を感じていました。
とくにご両親から言われたわけではありませんが、”私は香川の実家へ帰った方がよいのでは”という(長男としての)意識が芽生えていたのです。

鍋坂樹伸

ぼくがカメラマンになったきっかけは、正直「責任感」からでした。
ですが、世の中にはそのような状況に直面する場面もあると思います。
そのような時、対面する仕事の中で「やっていることを好きになる努力」も大切だとぼくは感じています。
やっていくうちに魅力に気づいたり、ぼくのように飽きずに長く続けられることもありますからね(^^)

※現在、鍋坂さんは専門学校穴吹カレッジグループ高松で講師をされています。
進路や将来に悩む学生さんには、「最初はそれでもいいから、興味を持つことや好きになる努力も大事だよ」とお伝えしているんですって。

そして27歳、ご実家であるコマーシャルフォト サン・スタジオに入社し、お父様に弟子入りされました。

お父様、またお母様に指導してもらうこともありながら下積み生活を積み重ね、次第に鍋坂さんに依頼してくれるお客様も増えていったといいます。
その中で、ご自身が信念とする部分、揺るがない想いを見出されていったのでした。

鍋坂樹伸

広告写真に必要なのは、撮影した写真が見た人に深い印象を与えること、被写体の魅力を最大限に引き出すことです。
たとえば被写体が人の場合、ぼくが大切にしているのは、モデルの顔立ちの美しさではありません。
その人がこれまで育んできた造形が編み出す表情、醸し出す雰囲気、言葉では伝えられない空気感を、ポーズや衣装との相乗効果で表現できるカメラマンを目指しています。
ぼくは撮影のたび、相棒であるカメラに”きちんと残してくれよ!”と心の中で語りかけ、被写体には“安心して心を開いてくださいね”と念を送りながらシャッターを押しています。
あくまでもお客様の期待に応えることがぼくの役割であり、ぼくは与えられた被写体の魅力を切り取っているだけです。

このようにおっしゃっていました。

鍋坂さんがいうには、被写体のチャームポイントを見つけることで、本人が想像している以上に美しく撮れるんですって!
みんな自分の顔をきちんと見ていないだけで、それぞれ素晴らしい魅力があります。
それをカメラに残し、お客様のお役に立てることができれば、これほど嬉しいことはないといいます。

実際、鍋坂さんは揺るがない信念を貫いた結果、そのお人柄や写真に心惹かれる人が徐々に増え、香川という地方から全国で活動されるカメラマンになられているのです。

鍋坂樹伸

最初はぼくも、”都会はすごい、東京はすごい”と勝手に思い込んでいました。
ですが実際に経験してみると、やっていることは変わらないという事実に気が付いたんです。
それに気付くまで場数は必要でしたが、地方に住んでいても、自分をしっかり持っていれば都会のみなさんの期待に応えられると思っています。
一つ自分を褒めるとするなら、周りの皆さんが導いてくれることを素直に信じて、能動的に動いてきたことですね。

鍋坂さんはこれまで、カメラマンにとって冥利に尽きるであろうNIKON Webサイトの写真も任された経験をお持ちです。

ですが鍋坂さんは終始おごることなく、「ぼくの今があるのは、ご縁をいただいた人たちのおかげです。」と何度も何度もおっしゃっていました。

人とのご縁が今の自分を作り出す

実は鍋坂さん、タイのキャンプを共にした女性に、「赤ちゃんの頃、周りには保育器で亡くなる子がいた中、あなたが生き残れたことには意味があるのよ」と言われたそうです。

その言葉の意味をずっと模索し続け、「自分はご縁をいただいた人たちの役に立ちたい」と感じられるようになりました。

そしてカメラマンの道へ進み、お客様が喜んでくれる顔を見ているうちに、”自分が人の役に立てる方法はカメラだ”と、確信をもてるようになったといいます。
鍋坂さんにとって、カメラは自分を表現できる方法であり、自分への自信を獲得した手段でもあるのです。

鍋坂樹伸

お客様とはせっかく出会うことができたのだから、一緒に幸せな時間を過ごしたいですね。
撮影はその時で終わりますが、出会えたご縁をいつまでも大切にしたいと思っています。

またその想いはお客様だけではありません。
共に企画・プロデュースしてくれる仲間、カメラマンとして手を貸してくれる先輩や後輩、周りに信頼できる大切な人たちがいるから今もがんばれているんだとおっしゃっていました。

仲間とのご縁に感謝し、お客様の期待に応えられるような作品を、これからもみんなで生み出していきたいといいます。

これが鍋坂樹伸というカメラマンであり、現在の活動が鍋坂さんの考える「生きる意味」なのではないでしょうか。

今回、鍋坂さんに取材をさせていただいた日の2か月前、約5年弱の期間闘病されていたお母様がお亡くなりになられました。
それまで医師との対応をしたり、県外に御祈願に行かれたり、亡くなる直前まで諦めることなく、ご自身にできることを精一杯されたそうです。

ですが、鍋坂さんの息子さんの高校入学説明会があった日。
無事出席したことをLINEで報告して既読になった後、安心したように息を引き取られました。

鍋坂さん、闘病中のお母様から「ありがとう。でもムリしないでね。」と伝えられたそうです。
これまで何事にも全力で生きてきた鍋坂さんの頑張りを、お母様は一番理解されていました。

そしてお父様も、面と向かっては言いませんが、周囲の人に「子どもたちはよくやってくれた」と話されていたそうです。

鍋坂さんにとって、お母様とのお別れがお辛いことだということは重々承知しておりますが、ここでご両親から認めてもらえた感覚は、一生忘れることのない喜びだったのではないでしょうか。

これからも鍋坂さんの周りに良縁が結ばれ、益々ご活躍されることをお祈りしています。

conasu

ホームページやチラシに掲載する写真の撮影について、もっと詳しく知りたい方は、こちらのWebサイトをご覧くださいね。

書籍紹介

Web制作と運営のための写真撮影&ディレクション教本

コラボ企画紹介

本当に欲しいカメラバッグ~OTO~

カメラマンにとって、カメラやレンズを収納するバッグは、命を包み込むように大切な存在です。
そんなカメラマンの想いをバッグ屋さんが叶えたいと手を取り合い、開発されたのが「OTO」(バッグの名称)。
シンプルなデザインの中にも機能性に満ちた収納力は、カメラマンの願いを満たすバッグとなっています。

最後に

取材の後、鍋坂さんの想いをご自身の言葉で綴ってくださいました。

人生を旅に例えられることがあると思います。 人生という旅には人との出会いがあり、私は出会った人に大きく影響を受けてきました。 うれしいことに、日々前向きに生きていると、辺見さんご夫婦のように素敵な人と出会います。 人は人に磨かれると言う言葉を聞いたことがありますが、まさにそう感じています。 出会えたみなさんは私にとって宝物です。 もちろんこれは父や弟、妻、息子も同じであり、家族の存在が今の私を創り出してくれています。寿命を迎えこの世からいなくなる日を『旅のゴール』とするならば、 自分の人生を一生懸命生きた。 大したことはできなかったけど、出会えたみなさんとご一緒できて幸せだった。 と思えるように残りの人生を送りたいと思っています。

コマーシャルフォト サン・スタジオ~鍋坂樹伸~

最後まで読んでいただきありがとうございました。
鍋坂樹伸